題 『恥ずかしくなんてない』 |
「あ、あ、あ、あのね、お母さん。」 声をかけると、母は言いました。 「あんた、今日どもりがひどくない」 それを聞いて私は、そういえば今日はよくどもっているかもしれないと思いました。そして、どもりについて穏やかに考えている自分に気付き、何だか嬉しくなりました。 同じ言葉を繰り返したり、言いたい言葉がときどき出なくなったりしてしまうどもり。両親の話では、私のどもりが始まったのは、2歳半の頃だそうです。きっかけは、お祭のときに、こわがっていたおししにかまれ、そのショックで、おししの「お」、からどもりだしたという、単純なことらしいのですが、それからほぼ14年たった今でもなおっていないところをみると、原因はほかにもあるのかもしれません。 小学生の頃のことです。私は、話すことが大好きで、黙っていることが嫌いなうるさい子どもになっていました。場所がどこであろうと、ぺちゃくちゃ話し続けるので、よく母に注意されていたようです。話すことが好きなので、当然どもることも多くなりましたが、小学校に上がったばかりで、どもることがよくわからなく、あまり気にしていませんでした。ただ、たまに言葉が出なくなるのは、話すときに苦しいなと、そう思っていました。 ある日、同級生に言われました。 「同じ言葉を何回も言わないで。」と。私はそのとき初めて、自分の話し方が人と違うのだと気付いたのです。それからというもの、どもりは私の中で大きなコンプレックスになりました。年をかさねるごとにだんだんと良くなってはいたのですが、たまに出てしまうどもりを人に真似され、笑われるたびに悲しいと思いました。すらすらと文を読んだり説明したりする人がうらやましいと思いました。 中学生になった私はどもることが少なくなりました。どもるたびに両親が「落ちついて。」と言ってくれたので、話す前にひと呼吸おいて、ゆっくり話すことを心がけたせいかもしれません。でも、完全になおったわけではなく、時折どもることがあるのです。 ある日、私は友人の顔を見て思いました。「聞きづらくてごめんね。私の言葉を待っていてくれてありがとう。」どもりながら話す私を、友人は、言葉が出るまで、根気よく待ってくれていたのです。それを見て私は、どもる私も辛いけれど、心配して待ってくれている友人も別な意味で辛いのだ。どもることが恥ずかしいのではなく、恥ずかしいと思っていた自分の心が恥ずかしいのだと気づいたのです。 私はもちろん今もどもりをなおしたいと思っています。でも、それは笑われるから、恥ずかしいからではありません。私の言葉を待って、真剣に耳を傾けてくれる人がいるから。そんな人たちともっともっと気兼ねなくおしゃべりを楽しみたいから。いつなおるのかはわかりませんが、私は、どもりという私の個性と、穏やかにつきあっていこう、そんなふうに思っています。 |