優秀賞(北海道PTA連合会会長賞)



石狩地区 江別市立江別第二中学校 3年 最知 なるみさいち     

題 『未来へつなぐ』

  平成二十三年三月十一日、二時四十六分。東日本大震災。三陸地震の余震とは比べものにならない揺れが、 当時仙台にいた私を襲った。立っていられないほどの強い衝撃。約三分。だが、それはとても長かった。
  その日、私は卒業式のための合唱の練習をしていた。指揮者が「もっと笑顔で、もっと声出して」といった瞬間だった。 音と笑顔が消えた。かわりに悲鳴と恐怖が体育館をおおった。先生たち大人でさえ、動揺していた。 「冷静になりなさい」とか「大丈夫だから、落ちついて」とか言っていた気がする。頭が痛い。体が言うことを聞かない。 恐怖で人形になってしまったようだった。
  母が学校に迎えに来られなかったため、友達のお母さんにつれられて家に帰った。
  道路は亀裂が入り、水が吹き出ていた。まるで、映画のロケ地のようだった。夢であってほしい。心から願った。 しかし現実は甘くはなかった。何度も繰り返す、おそろしいほど巨大な余震。そのせいで、自分の部屋は棚という棚から物が あふれ出し、足の踏み場もなくなっていた。
  ガスも電気も、水さえも十分にない。今までそこにあったものが姿を消した。明日がきちんとくるのだろうか。 希望や未来が、あの三分という短い時間でなくなった。
  その日の夜は避難所である学校に泊まった。夕方には母と会うことができたが、父は帰ってこなかった。 不安だったので、幼なじみの家族と一緒に夜をすごすことにした。
  町に最初の夜が来た。まだ七時だというのに電気の止まった町は真っ暗になった。雲のない空には、 たくさんの星が輝いていた。あんなきれいな星空を私は初めて見た。
  ラジオの情報は、どれが本当か分からなかった。海の近くに住んでいる祖父母は死んでいるのではないかという不安を 何度も打ち消した。仕事に行っていた父は、生きているか死んでいるのかさえ分からなかった。 連絡をとりたくても携帯は電波が届かず、電話も通じなかった。
  次の日、家に帰った私は、部屋に散乱している荷物を片付けた。忙しくしておきたかった。
  私が水くみに出かけた帰り道、祖父を見つけた。「おじいちゃん」と声をかけると、 祖父も私を見つけて近づいてきた。でも、驚きで口が動かない。「お母さん家にいるから」というのが精一杯だった。 しばらくして、父もヒッチハイクで帰ってきた。朝、乗っていった車は、津波で流されてしまっていた。 三人ともまともに津波をかぶり祖母は、けがをして入院していた。
  でも、私はラッキーだ。家族が全員無事だったのだから。あの地震では、一万六千人の人が亡くなったのだ。
  私は思う。生きていることは奇跡だと。
  今の私は明日が楽しみだ。明日に向かって生きることで、一歩でもなりたい自分に近づけるから。 あの何万という人が死んだ中で、生き延びたこの命。やりたいことを思いっきりする。 何かきっと私には、やらなければならないことがあるはずだから。そして、あの日見た星空のように、 目一杯この命を輝かせたい。