優秀賞(北海道教育委員会教育長賞)



空知地区 芦別市立啓成中学校 3年 渡 部 胡 桃 わたなべ  くるみ 

題 『左耳が教えてくれたこと』

  私の左耳は、何も聞くことができません。この耳も手術によって作られました。 私は、左耳が聞こえない「小耳症」という障がいを持って生まれました。この障がいは、 六千人に一人の確率で発生する可能性がある先天性のもので、生まれつき耳が小さかったり、 無かったりします。耳の穴がふさがっていることがほとんどで、聴力ももちろんありません。 原因も分かっていませんし、完全な治療法もありません。私のように手術によって耳だけを作ることは できますが、それには長い時間がかかります。
  今のような左耳がなかった頃、クラスの人から「お前の耳は変だ」「小さい」と悪口を言われていました。 髪を伸ばし、耳を隠すことで、自分の心も隠そうとしていました。ですが、 隠すことで余計に視線が気になり、息苦しさを覚えました。悪口を言われる度に、傷つき、 なぜ自分の耳はみんなと違うのだろう、なぜ聞こえないのだろうと母に尋ねました。 母は、泣きながら申し訳なさそうに「ごめんね…。」と言いました。 今思えば、そうやって私から聞かれる度に、母は自分のことを責めていたのだと思います。 今なら、母に聞いても仕方のないことだとわかるのですが、あの頃の私はそうやって母に言わずには いられないほど追いつめられていたのだと思います。 しかし、母はそんな私の気持ちを正面から受け止め、手術を勧めてくれました。
  小学五、六年の冬休み、二度の正月は病院で過ごすことになりました。 手術を担当して下さった札幌医大の四ッ柳先生は、小耳症の治療において大変有名な方です。 他の病院では治療できないと断られていた私の耳。しかし、先生は熱心に診察を行ってくれ、 心をときほぐすように言葉をかけて下さいました。最初の手術は、胸の奥にある肋軟骨を取り出して形成し、 左耳のところに埋め込むという難しいものでした。取り出したところには五センチほどの傷が残りました。 二度目は、前回埋め込んだ耳を起こし、その裏側に自分の皮フを移植するというものでした。 皮フを取ったところには手のひらくらいの傷が残っています。 この二度の手術を経て、外見的にはみなさんと同じような耳が出来上がりました。 包帯をほどいて鏡を見た瞬間、そこに本来あるべきものがあるということの素晴らしさにふるえ、 私は泣き続けました。人生で一番嬉しかったです。先生と出会い、耳の治療をしてもらえていなかったら、 今も私は色々なものを隠しながら生きていたかもしれません。
  初めての手術の時、耳が手に入るという喜びよりも、不安の方が大きかったのを覚えています。 そんな私を支えてくれたのは、やはり母でした。手術に向かう時はもちろん、入院中もずっと 「お母さんがいるからね」と励ましてくれました。本当に感謝しています。そして、もう一人、 私を支えてくれた人がいます。それは、看護師さんです。不慣れなことばかりの入院生活を サポートしてくれるとともに、「大丈夫」と何度も声をかけてくれ不安な気持ちを和らげてくれました。 きっと私が見ていないところでもたくさんの仕事をしているのに、 疲れた顔を見せずに接してくれる看護師さんに、感謝するとともに、 いつしか私は憧れの心を抱くようになりました。
  今の私の将来の夢は、看護師になることです。あの日の看護師さんのように、 私も誰かの不安や痛みを和らげる存在になりたいです。
  「小耳症」という障がいは、私にとって嫌なものでしかありませんでしたが、 この障がいを持って生まれたからこそ、今の自分があり、こうやって将来のことも考えられるのだと思います。 私は、私にしかできないことを見つけ、精一杯取り組み、夢に向かって歩んで行こうと思います。 それに気づかせてくれたこの左耳は、私の大切な宝であり個性です。